窓の隙間から入るほんの少しの冷気が頬を撫でるのを感じて、重たい瞼をゆっくりと開け、窓に視線を移す。見ているだけで芯から凍えてしまうような、そんな鼠色の雲はどこまでも厚く伸びていて裂ける気配もなかった。
冷たい頬に手をやり触れたあと、横たえていた身体をゆっくりと起こして窓へと近づく。しんと静まり返った部屋に床の軋む音が響き、それがやけに大きく耳障りに聞こえた。
凍りついた窓をどうにか開けると、肌を突き刺すような冷気が一気に部屋へと入り込み、微睡んでいた意識も途端に現実へと連れ戻される。

この時期のこの場所は深々と降り続ける雪に何もかもが阻まれ外界からほとんど隔離される。
厚い雲はいつまでも流れ、陽はなかなか地を照らさず、雪に覆われたままいくつかの月を跨いで春を待つ。雪が溶けて青々しい草木が目を覚ますまで、私たちは静かに、眠るように過ごすのだ。

雪の降る微かな音と自分の息遣いだけがすべてのような真っ白の世界が窓の外に広がる。一息つけば途端に白く、吸いこめば喉が一瞬にして冷えた。大粒の牡丹雪が開け放っていた窓から部屋へと少しだけ入ってくる。肺を満たしていた冷たい空気をふぅと吐き、静かに窓を閉めた。



外出するための支度を終えて玄関を出る。お気に入りの傘を差し、雪に埋もれないようカンジキを履いていつもの場所へと向かった。雪に足を取れながらも歩き慣れた道をしばらく進む。そして村はずれにある小さな池の前まで来ると足を止めた。氷が張った池の側には冬牡丹が寄り添うように咲いていて、誰かが差したのだろう藁で出来た傘を被っていた。灰交じりの雪が広がる視界の中で一層鮮やかな冬牡丹は、寒さに震えることも無くただ静かに其処にあった。鋭い寒さが鼻や頬を赤く染める。悴む手を擦りながら、それでも此処に来たのには理由があった。

この時期になると、あの人が雪を踏みしめやってくる。雪が深い時期にだけや ってくる変な人。
珍しいものを沢山抱え、何処のこととも分からないような珍しい話ばかりをしては私を笑わせてくれた人。あの人と話すたび、笑顔やその心に触れていくたびに次第に惹かれていく私が居た。
あれは出逢ってからいくつめの冬の事だったか。綺麗とは言えないゴツゴツとした手で雪に濡れた髪を梳いてくれた。そしてまた来ると言ったあの日から、幾つの冬を超えたのか。
冬が訪れる度に初めてあったこの場所に来ては待つけれど、今は雪を掻き分け踏みしめる音も、耳の奥で響くようなあの声も聞こえない。
傘を持つ手が赤くなっても、吹き抜ける風がどんなに冷たくても、数えきれぬほどの雪が髪を梳こうとも、この場所に来て待ち続けてしまうのは、あの日交わした言葉は確かなものだったから。それが雪よりも脆くあっという間に溶けてしまう程他愛もない約束だとしても、信じてしまうほどその目は真っ直ぐ私を射抜いたから。
寒さに震える身体を独りで抱きしめている間幾度も思い出を辿るけれど、季節が巡る度に遠のいてしまう。今ここにあるのは心に漂う名残ばかりで、寒さで赤くなった私の頬を撫でてくれる指の感触を忘れたくないと願いながらも、いくつも季節がすぎる内に薄れていった。



そして今日も、あの人は来ない。



あれからまた一つ季節は過ぎて、穏やかな春になる。風が優しく吹き抜け、雪が溶けていく。
あの人がこの地を訪れなくなってからの日々は変わらず穏やかだけど、冬の間だけはとても長く感じる。一日一日が確実に過ぎていき、過ぎていくたび何かを忘れてしまうような感覚がとても怖かった。
どうしてあの人がここを訪れなくなったのか風の噂に聞いたけれど、とても信じられる話ではなかった。私が見た最後の彼は確かに生きていて、また来ると私に言い残して去っていったのだから。
あの人がこの世にはもういないなんて、あの温もりや優しい声が冬の吐息のように一瞬で消えてしまうほど儚いものだったなんて信じたくもなくて。あの笑顔や声、優しい温もりをこの胸に抱きとめることはできないのだと知った時、私はどんな顔をしていたのだろうか。一筋涙を流して、信じたくないと首を振って、己の手に顔をうずめたあの日。
私はあの日から何も変わらず、あの人との記憶だけが少しずつ雪のように溶けていく。どんなに忘れたくないと願っても過ぎていく日々の中に埋もれていき、あんなに鮮明だった笑顔も朧になった。



そのうちあの人よりも歳を重ねて、彼とは違う人の元に嫁ぐ時が来る。
そうなったとしても、私はきっと今と何も変わらずあの場所に足を運ぶのだろう。
あの冬牡丹の咲く池の前でだけ、あの人のことだけを想い、降り注ぐ雪に紛れるようにひっそりと泣けるのだから。

そうしてまたひとつ、冬が過ぎていく。










end